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環境決定論と環境可能論と対立する二つの思想

Date: 2018

環境と人間とはいったいどのような関係性があるのかを考えれば考えるほど、人間は到底環境と別れて論ずることができない。まず環境という言葉は、ふつう以下の二通りの解釈ができる。①人間に対する自然環境と、②ある主体を取り巻く環境との二つの解釈である。

1.自然環境は、つまり人間と人工物を除いた事物をさす。

2.取り巻く環境とは、あらゆる主体物以外すべての事物、とくに空間的側面をさす。

その主体は、別に人間だの自然だの、有機物だの無機物だの、どちらでも構わない。それが主体であると、主体以外のものはすべて「環境」になる。すなわち、人間を主体とすれば、環境というのは必ずしも自然環境とは限らず、人工環境も成立する。逆に野生生物を主体とすれば、人間は彼らにとって環境の中にあるのである。ここでは人間を主体とする環境を論じる。人間が主体であれば、環境論は従来の気候植生から、風土(文化環境)さらに建築(人工環境)にも拡大できる。本稿ではとくに人工環境に注目したい。

地域の個性

2004年に設立した景観法では、景観を地域の個性を活かし、観光資源として利用するなどと書いてあった。まず問わなければならないのは、「景観」という言葉の定義。「景観」は字面からすると、景色のような意味を持っているが、その意味は実際に学者と分野によって互いにすれ違い、地理学辞典でさえ編集者と出版年によって解釈が違うことは周知なことである。従って「景観」という言葉を用いて本稿の主題である環境を論じる場合、誤解を招かざるを得ない。ここでは、「景観」という用語の代わりに「空間」と「風景」を使う。

前述の景観法では地域の個性ということを挙げていた。しかし、私はそれに対して少し疑問を抱いた。地理学者たち、都市デザインをする建築学者たち、それにまちおこしに熱心な社会学者たちは、何を持って「個性的な地域」を言い切れるのか。よく言われるのはモータリゼーションと高い地価のため、店舗が郊外に進出し、またチェーンストアの出店などによって、国道沿いに建つ店舗と巨大な看板や郊外ショッピングモールの一色の風景が構成した。専門化たちはこれら人工的画一な風景を批判している。そこで地域の個性が注目されつつある。とくに景観法では、個性的な街並み風景を作り出して観光客を呼び寄せることを推進し、地域活性化を図る。ところで、地域の個性とは何かを解明しなければ話が進まない。

個性があるとは何か、個性がないとは何か、まず国道沿いのチェーンストアを考えよう。チェーンストアは常に巨大な看板が連れてくる。マクドナルドやユニクロや洋服の青山などはよく目につくことだろう。北海道から沖縄に至るまで一様な国道風景が構成している。多くの人はそこで、チェーンストアの出店規制や屋外広告物規制などを設けるべきだという結論に至る。

ところが、ある要素が存在する限り、地域の個性は決してない。それは、国道そのものである。そもそも国道が北海道から沖縄まで一様に整備されているのではなかろうか。たとえチェーンストアが無くなっても国道が残る。また別の店舗が展開する。結局、国道と両側の店舗は不変の根幹である。立地条件の優位性がある国道に店舗が開店するのは回避できにくい。国道あっても国道風景は北海道や沖縄の地域性に依拠するのではなく、国道そのものに依拠する。国道風景を構成する不変の根幹である国道そのものの上に店舗が展開し、それゆえ、どこに行っても国道の風景は変わらないのである。

もし国道の風景を変えようとするならば、まず国民の生活習慣と買い物習慣や移動手段を変えなければならない。人は移動しやすい場所に集中したり、移動ルートに接近する場所で買い物したら、車で移動したりするので、国道と国道沿いの店舗は、それに

応じて立地するのである。すると、明らかになってくるのは、風景を変えるの先立って、人間の生活を変えざるを得ないのことである。逆に言えば、人間の生活は生活する場所の風景を決め付けた。さらに、人は決め付けた風景に沿って生活せねばならないように、循環が働く。

似たような事情ではタワーマンションがある。人は好んでエレベーターを乗るのではなく、タワーマンションという標高差のある環境に置かれているから、垂直移動の手段としてエレベーターを乗らざるを得ない。つまり、人間はタワーマンションという環境を建設し、その環境でエレベーターを乗る生活習慣が得られた。タワーマンションも決して個性が存在しないのだ。垂直移動の必要がある限り、エレベーターを乗る習慣はなくならない。地域特色の移動手段といったものは決して存在しない。たとえ個性があるとして、それは精々色彩や形状上の変化に過ぎない。そのような違いで生み出した風景は、生活様式の差異からなる人文風景ではなく、もっと表象的なものであった。

環境の改変

このように、人間は自ら作り出した環境の中で生きている。ところで、人間は環境を変える能力がある。建築によって新しい環境の中に属した人間は、自分自身の取り巻く環境をどのように改変するのか、以下の二分法が考えられる。

まずは

1.客観的に環境を変化すること。

すなわち直接環境に手を加えることで、自分に相応しい環境を獲得することである。それに対して

2.主観的に環境を変化することがある。

すなわち環境に手を加えず自分自身が移動し、相応しい環境を獲得することである。例えるならばいえば1は新居建設やリフォームのようで、2は転居や移民のようなことである。

2の考え方が得ると、今まで環境に対する見方が変わってくる。例えば親子が東京に住んでおり、彼らが同じく東京という環境に置かれていると我々は思う。しかし、親は仕事をするので山手線を乗り、子供が学校へ通うので歩いていき、それぞれ別々の経路を辿る。彼らの主観的な立場からすると、生活する環境は全く違うのである。こうして彼らは東京の中に住所立地の選択があり、いったん決定したらそれに絞られ、ただし家を出たら移動の自由があり、逆に家という環境は彼らに対して制約が働かなくなる。こうして環境は、またマクロとミクロな視点から考えられる。

というのは、環境決定論と環境可能論との対立はそもそも存在しないのである。それについてどちらが正しいかを考えるのは無駄である。両者は同時に存在する。要するに疑似問題に他ならない。


Last update: 2023-06-28
Created: 2023-06-28